鬼手仏心
タダノ教授と毎度のことながら、一杯呑みながら、話していたのだった。小生も彼も、すでに古希を過ぎている身だ。すでに、子どもは独立して生活しているので、それぞれのんびりとなんの苦労もなく生活しているのである。タダノ教授は好きな研究に取り組み学生を相手にし、小生はゆっくりと、ウォーキングや、ジョギングを楽しんでいるのである。タダノ教授は、現役時代は、学生相手に結構厳しいことを要求していたみたいだ。一人前の研究所としての気構えができてない学生に、かなり理詰めにて、追い詰めるようなことで、対処していたらしい。今で言うところの、パワハラ、アカハラの少し手前までのことであったのだ。
それにしてもややこしい時代になったもんである。小生や、タダノ教授は、指導教官から、強く叱責を受けて育った世代である。「なに、クソ!」精神で、学生時代を乗り越えたものである。子供に対して、親が厳しく指導するのは、当然だった世代た。そして、小学校や中学校の教師から、どつかれた世代でもあり、それが、当然だったのだ。(今なら、アカハラだ。)しかし、そんな中でも、どんなにどつかれたとしても、尊敬していた先生がいたのも事実である。親にしても先生にしても愛のムチという言葉が示すように、子供に対して、正しく育ってほしいために、行うものだというのだった。今ならDVであり”いじめ”でもある。
仏教用語(性格には仏教用語の組み合わせ)に”鬼手仏心”(きしゅぶっしん)というのがある。鬼手とは、囲碁や将棋などで、相手の意表を突く手を指すことである。時には、鬼の手を意味することもまある。仏心とは、そのものズバリだ。仏の心、優しさを意味する。四文字熟語の”鬼手仏心”となると、ちょっと意味が違ってくる。この言葉は、病院の外科医が手術する時の心がけになっているのだ。患者の体をメスで、傷つけるが、それはあくまでも、病気を治すためなのだ。メスを持つ(鬼手)ことが残酷で大胆だが、それは、患者を治療しようとする心によるものなのだ。父や母が、子供を厳しく躾けるのは、これもまた鬼手仏心によるものであろう。
この鬼手仏心の類語に”鬼面仏心”がある。タダノ教授と呑みながら話をしたのであるが、仏心は、慈悲の心であり、他人を慈しむことなのだが、昨今の風潮では、”鬼手”はよっぽど注意して、使用しないとすぐに訴訟に発展しそうだ。住みにくい世の中になったものである。タダノ教授と小生はガミガミ爺となるか、好々爺となるのかはわからない。認知症が現れて(?)から、他人がどっちなのか決めてくれるだろう。そんな情けない話で、呑んでいたのである。








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