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2025年6月

2025年6月30日 (月)

ハグロトンボ

 久々に、ハグロトンボを見たのである。小生の世代では、幼少の頃(そんな時代もあった)は、田んぼの用水路や、小さな小川では当たり前に見ることができたハグロトンボである。いつの時代から、このハグロトンボが見ることができなくなってきたのだろうか。調べてみると、東京では絶滅危惧I類青森では絶滅危惧II類に指定されている。やはり、最近は見かけなくなったのだ。そもそも水辺が少ないし、また、農薬の影響なのだろう、トンボの餌となる小昆虫がいなくなったのだからだ。その理由も納得できたのである。

 

Img_2865  小生の住んでいる伊丹市にある下河原緑地は空港の近くにあり、飛行機の離着陸を見ることができるスポットである。そこで、久々にここで、ハグロトンボを見かけたのである。このハグロトンボは、『お歯黒』のように真っ黒だから、ハグロトンボというのだろうと勝手に思っていたが、実際いは、「羽黒蜻蛉」と言う和名であり、”羽黒神社”の大神様というのであった。幸せを持ってくるというとても縁起の良いトンボなのである。そもそもトンボは前しか進むことができないので、それだけでも縁起が良い昆虫ということなのである。

 

 この伊丹にもハグロトンボがいたということで、その日一日が、素晴らしい日になりそうImg_2867 で、ワクワクしたのであった。合わせて、ムギワラトンボも見かけたのだった。

2025年6月25日 (水)

インフラ友達

  親友、旧友、学友、そして悪友など友達にも色々ある。(一昔前ならば、戦友などもある。)

 小生と、親友のタダノ教授が中学生の時であった。テレビの子供向けの番組で、”一年生になったら”という、童謡(?)をやっていたのを覚えていた。テレビのコマーシャルで、今でも3月の末から、4月のはじめにかけて、ランドセルのCMでかかるから、知っている人は多いのだろう。作曲は”大きいことはいいことだ~♫”の山本直純だ。そしてまた卒園式で、”思い出のアルバム”と、この”一年生になったら”の両方(または片方のみ)を園児たちが歌うのが、常連となっている幼稚園がある。親としたら、感慨深のだろう。

 

 この”一年生になったら”の歌詞に「ともだちひゃくにんできるかな」というのがある。このフレーズが繰り返されるのだ。「小学生で、友達が百人もできたらそりゃ、素晴らしいことだな。そもそもできないから歌になっているはずだ」と冷めきっていたのだ。童謡に文句を言っても仕方あるまいということだ。でも元気の出る曲だ。と、感じていた。しかしだ、昨今は、流石に小学生の低学年は無理だろうが、卒業までに簡単に百人の友だちができるのだある。メールやSNSなどで、簡単に、100人、200人の友だちができる。親友というのには、程遠いが、十分に、友達なのである。高校生や、大学生にもなると、1000人以上の友達がいる人もいるのだ。世の中が変わったのである。

 

 では、本当の友達というのはどんなものなのか、これについては面白い調査があるのだ。2013年10月に博報堂が15歳~69歳までの男女1500人にアンケートを取っているのだ。その時のキーワードが「インフラ友達」なのである。面白い表現である。つまりかけがいのない友達と、言うことなのだ。インフラがなければ、人間は死んでしまう。そのように絶対的な友達という捉え方をしても構わない。ただし、社会的な要求に応じて、その状況に応じて、対応してくれる友達なのだから、複数いるのが普通なのだ。簡単に言うと友達の役割分担ということかな。

 

 このアンケートの結果は、翌年(2014年)に、書籍となって、出版されており、当時は、結構話題になっていたようだ。タダノ教授も、この本購入して、読んでいた。ただし、当時8000円で売り出されたのであった。なかなか面白い分析をしているので、当時の風潮の一面を表していると思うのだった。友達を分析して、単純に分類しているのが面白い。例えば、「ネンイチさん」(多分年賀状の友達かな?)、「避難所友」(災害のときに助けてくれた友達)、「墓友」(墓にまで一緒に入ってくれる友達:本当なのか!?)

 

 もう10年前のアンケートなので、どのくらい今の世相を反映しているのかは、わからないが、ちょっと興味を引くものであった。Z世代にとって、「インフラ友達」とは、どういうものなのかが、ちょっと興味があるのだ。

 

 この博報堂のアンケート結果書籍は、今では、古本屋に400円前後で、見つけることができた。このぐらいの価格ならば、手頃だな!

2025年6月20日 (金)

性弱説

  タダノ教授と話をしていたときのことである。彼は、科学・技術のみならず、経済や、心理学にも幅広い知識を持っている。彼との盃を傾けながらの懇談は、楽しいものであった。特に互いに古希を過ぎたあたりからは、昔話に花を咲かせるのが常だった。主に、昭和の話が多いのは、二人共夢と希望が溢れていた時だからなのかもしれない。そんな彼と、哲学談義に花を咲かせるのも楽しいものだ。何しろ、小生とタダノ教授は、屁理屈が大好きときているのだ。

 

 「性善説と性悪説」が、あるのを知っているよな。」と、タダノ教授。「人間の自然本性(生まれつきの性質)は善である」とする説と「悪である」とする説のことだ。」そして、これは古代中国の儒家の『孟子』と『荀子』の対立に由来することを学校で習った覚えがある。性善説は「人はみな善人である」という楽観主義、性悪説は「人はみな悪人である」という悲観主義、といった意味合いで広く使われているものだ。しかし、本来は、「教育の重要性」を主張するための説であったのだ。

 

 タダノ教授が初めて聞く面白い説を言い始めた。性善説でなく、性悪説でなく、それは、「性弱説」というものだった。たしかに面白そうだ。「つまり人は、生まれながら善とか悪とかで区分けされるものではなく、そんなに強いものではない。」という説だ。生物は、生存本能を脅かされると、生き残ることを最優先に、行動するものだという考えである。そんな状況に置かれると、道徳や倫理、法律などを超えて生存のために利己的な行動を取るという思いなのだ。たしかにこの説には説得力があると小生は思った。

 

 身近では、道でお金を拾っても届けない人がいるし、優先席の前に年寄りに譲らない人を見ることもある。道徳的には、許されないことだろうが、人間というものは弱いものである。また、飢餓に苦しんでいる人が、食べ物を盗んでしまう人を責めることができるだろうか。映画の世界だが、我が子の心臓移植手術のために、立てこもりの犯罪を犯す親を主人公としたのがあった。本来は、人間は善であるが、弱いものである。

 

 企業の不祥事なども、ひょっとしたら、性弱説なのかもしれない。本来、企業は"善”でなければ、存続は難しいのだ。しかし、経営幹部の判断でトラブルを誤魔化したり、欠陥を隠したりする。バレると、関係者一同揃って頭を下げるシーンが繰り返されるのだ。こんなことは、最近日常茶飯事になってしまったのか、さほど驚かない。だからこそ、企業では、ガバナンスが、大切なのだ。

 

 性弱説と、言う言葉を初めて知ったのであり、日本人の優しさが、その言葉にあるということなのだ。考えてみると、小生などは、性弱説を地でいくらい弱い人間だったと思う次第だ。それにしてもタダノ教授は奥行きの広い洞察力を持っているものだと、あらためて、感心した。

2025年6月15日 (日)

あべのハルカス

  大阪の高層ビルで最も有名なのは、300メートルの建物である「あべのハルカス」だ。2014年に、オープンしたのだから、もうすでに10年以上、経過しているのである。大阪市のJR環状線と大阪メトロの天王寺駅に接しているのである。東京で言えば、東京駅に対して、副都心の新宿駅に当たるところだ。山手線で行くことができる。大阪では、大阪駅と、天王寺駅とが同様な感じてある。と、いえば、東京の人間には位置関係がわかるかもしれない。大阪の市民の中で、この「あべのハルカス」に行ったことがある人は、どのくらいいるのだろう。地上60階が、展望台になるので、時々は、テレビで、紹介されている。しかし、小生の周りでも、ほんの数名しか、この「あべのハルカス」に行ったことがある人は、いない。まあ、東京で、東京タワーに登ったことがある都民が少ないのと同じかな。最近では、東京スカイツリーですら、同じようなものだろう。所詮、名物などというのは、地元よりも、地方から、やってくるお上りさんのためであるのが普通だ。昨今ならば、インバウンドのためにあるといっても不思議ではない。

 

 JR天王寺の近くに、用事があったので、ついでにこの「あべのハルカス」に行ってみることにした。そもそもなんで、天王寺駅の駅ビルに「あべのハルカス」という名前をつけたのだろうか。小生の周りには、この答えを知っている人は、あまりいなかった。ネットで調べればすぐに分かることだ。”あべの”は地名”阿倍野”だ。そして、”ハルカス”は、”晴るかす”という古語が由来ようである。平安時代の書物にあるようだ。詳しく知りたければ、ネットが一番だ。地下鉄とJRの『天王寺駅』に隣接されているし、近鉄ならば『阿倍野橋』が隣接されている。どれかで、この駅を下車すればいい。

 

 この”あべのハルカス”であるが、近鉄がスポンサーに付いているので、近鉄百貨店が、隣接している。また複合ビルなので、銀行や、証券会社を始めとした、オフィッスビルでもある。低層階には近鉄百貨店(あべのハルカス近鉄本店)と美術館あべのハルカス美術館)、中層階にはオフィス、高層階にはホテル大阪マリオット都ホテル)や展望台(ハルカス300)が入居している。便利であり、なおかつ名物なのだから、テナントの賃貸料は結構高そうだ。小生にとってはそんなことはどうでもいいことだ。

 

 有名な地上300メートルにある「展望台」へ行くには、16階まで行き、そこで、エレベーターを乗り換えて、60階まで行くことになる。とりあえず16階まで行ってみることにした。休日は、展望台まで行く観光客で混雑しているようだが、今日は平日なので、ガラガラである。005_20241216141501 外国人観光客も少ない。16階には、屋上庭園と、ハルカス美術館がある。60回の展望台まで行くには、ここで専用エレベーターに乗り換える。大人一人2000円である。また、ハルカス美術館も入場するには、2000円の入場料が必要だ。共通券があり、3500円ということだ。事前に調べていたので、特に驚くことはない。今回はスキップだ。

 

007_20241216141301 004_20241216141301 001_20241216141301 015_20241216141601 003_20241216141301  16階の屋上庭園からは、西側の一方向しか見ることができない、つまり、90度の視野だがそれなりに楽しむことができた。ちょっと見づらいのだが、通天閣を、見る022_20241216141401 008_20241216141401 ことができたのだ。17階にはカフェがあるが、コーヒーなどは、いい値段だ。コンビニのファミマがあったので、そこでペットボトルを買って、イートインにて、しばらく休憩だ。150円で、ゆっくりとできるのだからまずまずである。

 

 あべのアルカスは、16階までいくことでとりあえず十分に楽しめたのだ。何しろここまでは、”無料”である。美術館と、展望台は、次回に回すことにした。(そんなチャンスが、有るか無いか、わからないが!)

2025年6月10日 (火)

牽強付会(けんきょうふかい)

 タダノ教授と世間話をしていたときのことである。政治家や、企業の不祥事に対しての会見を聞くと、どうも自分に都合よく解釈しているのが、目立つという。小生もまた同意見だ。タダノ教授は、これを「けんきょうふかい」と言って、切り捨てたのである。小生にとって、聞き慣れない言葉であったので、この意味を調べてみた。

 

  ”牽強付会”、この四文字熟語は、知らなければ、読めない(当然だ!)。この”牽”は、「けん」と読み、引っ張ることを意味する。これでもJIS大1水準の漢字である。「牽引(けんいん)する」のような使われ方をしているな。列車の先頭車両(動力車両)を牽引車両と言うこともある。牽引車は、レッカー車のことだ。

 

 ”牽強(けんきょう)”という使われ方を、ネットニュースで知ったのである。この意味は、『道理にあわないことを、自分の都合のいいようにこじつける』という。”付会”『同じように自分の都合のいいようにこじつける』という意味なので、強調のために同じ意味を重ねた四字熟語というのだ。

 

 なるほど、自分の都合のいいように無理やりこじつけて言うのだ。まさに昨今の政治家や、不祥事を起こした企業トップや、はたまた事件を起こした人気芸人、などの会見を聞くとこの言葉がしっくりとするのだから不思議だ。

 

 別の言葉に置き換えると、屁理屈 こじつけ でたらめ
詭弁 論理のすり替え 論点のすり替え
などとなる。こっちのほうがわかりやすいかな。

2025年6月 5日 (木)

注意資源

 タダノ教授と呑んで懇談していたときのことである。やはり古希をすぎると、小生と同様に、認知力が落ちたのを時々感じるというのだ。年齢からくる認知力や、注意力が劣ってくるのは仕方がないと諦めていたのである。タダノ教授によると、この注意力(認知力)には、人それぞれ限度があるというのだ。2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カールマンという学者が注意資源という考え方を提唱したというのだ。

 

 注意力には、限度があるという考えなのだ。齢を取ると、確かに注意力が落ちるのは、自らの経験でよく分かる。現役時代は、3~4つぐらいの仕事を並行して、当然のように処理していたのだ。最近は、一つの仕事ならば、十分に集中できるが、3つも4つも並行してはできない。これが普通なのだろうと思っていた。ところが、この「注意資源」という考え方というのは、チョット違う。注意力には限度があるというのだ。一つのことに集中できるのは、個人差があるものの90分程度が限度であるという。複数のことを同時になろうとすると、集中力が分散されて、注意力は枯れてしまうという理論である。確かに経験からも、納得できる。ただ、この理論の良いところは、注意資源は復活できるというのだ。森林を散歩したりなど、自然を相手にすることで癒やされる。そうすると、復活するというのだ。時々リフレッシュすればいいというわけだ。

 

 聖徳太子は、7人を相手にして、話を聞き、それぞれに対して、的確に回答したという。すごい認知力と集中力だ。つまり、注意資源がたっぷり有ったということだな。小生のような普通の人間は、せいぜい2~3人の話を聞くのが精一杯だし、古希をすぎると、そもそも聴力が落ちてくる。これも注意資源が減ってきたのかもしれない。

 

 しかし、一方、近くの図書館では、10時オープンと同時に、「ド、ド、ドーッ」と、隠居中のご老人(?)が数名入場してくる。そしてすぐに新聞掛けのところに行き、当日の新聞を2~3ほど持って、ベンチや、ソファに座り読み始めるのだ。まさに一心不乱であり、これを日々のルーチンにしている人たちなのだ。午前中いっぱい(時には午後も)読みふけっているのだ。「この人たちは、すごい集中力だな」と、感心するのであった。注意資源が、まだまだ落ちない人なのかな。と、思っていたが、どうやら、自宅で相手にされない隠居したオッサンの都合の良い行き場所となり、時間つぶしに利用しているのであった。家にいて、カミさんや家族から、「濡れ落ち葉(まとわりついて離れない)」など、と、言われるよりマシなのかもしれない。

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