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学校生活

2024年7月30日 (火)

大学進学率(当世学生気質 第46弾)

 小生は大学の教員をやめて、結構な月日が経っているので、その感想を述べたところで、誰も、もう影響を受けることはないだろう。タダノ教授は、まだ頑張って、大学教授を続けている。彼は、更に少なくともあと5年は、頑張るらしい。そんな彼もすでに正規の教授職は5年前に終えている。今は、アドバイザーの立場で、研究室に出入りしているのだ。直接の授業は、すでに終えており、研究室で、学部生や、院生のアドバイザーをやっているのだ。生涯現役というのが彼のモットーなのだ。研究と教育が彼は、天命だと思って生涯、取り組むつもりであるようだ。小生は、古希を過ぎたならば、また新たな生活に取り組むつもりであった。それでも、彼と盃を傾けながらの懇談(怒鳴り合い)は、楽しいので、やめられないのである。

 

 小生の大学時代と、現在の大学生気質との違いがめちゃくちゃ大きいのを実体験したのは、大きな成果であった。小生たちは、昭和の遺物と言われればそれまでなのである。

 

 小生たちが大学を受験するというのは、かなりの狭き門を通過しなければ合格しなかったのである。しかし、決してエリートではなかったが、学士様と尊敬(多分馬鹿に?)されていたのも事実であった。受験生の半数は、浪人であった。それでも、小生たちと同世代では、大学へ入学した(出来た)のは30%もいなかったのである。それが、現在では、とっくに50%を超えた人数が、大学生となっているのだ。大学数と、学部数が、格段と増えたのだから当然だ。ただここまで増えてくると、学生の質が大きく変わるのは仕方がない。「昭和の時代は、大学生は、希少価値だったな~!」と嘆いているわけではない。

 

 小生は、大学の教員(正確には非常勤講師)を10年も勤めたたのである。理工学部であるが、学生の幾人かは、とても大学生の教育レベルには達していなかった。中学で習う数学の二次方程式が解けない学生がいるくらいなのだ。更に、レポートの誤字脱字、さらに文法がめちゃくちゃで、手書きのレポートは、読むのに骨が折れる。自分の名前すら、満足に書けない(正確には、読むのが難しい)学生が一人や二人ではないのだ。もちろん優秀な学生もいるのが、救いである。要するに優秀な学生とそうでない学生の格差が大きいというわけだ。

 

 教員を退職する年に、ネットで、学生のための資料をチェックしている時、「トロウ理論」というのを知ったのだ。大学のような高等教育を研究したマーチン・トロウが提唱した理論だ。日本の大学進学率は現在50%を超え、トロウが言うユニバーサル・アクセス型の段階へ入っているという。昭和初期までの高等教育(つまり大学のこと)は、一部のエリートのためであった。

 

 15%を超えると、エリートだけではない。大衆にも、門戸が開かれたのだ。小生とタダノ教授は、その世代であり同世代では、26%くらいの人々が大学生となったのである。当然、予備校通いの浪人が半数くらいの同級生となった世代なのだ。

 

 進学率が50%を超えると、大学は勉強のできる人だけが一部の専門職やエリートを目指して学ぶ場ではなく、「社会に出るため」「周囲が皆行くから」といった理由で誰もが学びに来る場になったのである。世界レベルの研究成果をあげる大学から、高校までの学修内容を十分に理解しているとは言えない学生に基礎的な学習スキルを習得させる大学まで、極度に多様化ししているのだ。しかし、彼らには別の得意な一面もある。素晴らしい発想や、注意力を持って、自分の考えを述べる学生には、時々”ハーッ!”とする時もあったのだ。

 

 学生の質が大きく変わるのを目の当たりにしてきたのである。それに伴って、大学の授業や研究の質が変わらなくてはならないが、それはどうやら難しいようだ。少しずつでも高等教育のあり方が変わっていかねばならない。そして、大学が、時代にあった教育機関となることを切に願うだけだ。

2024年3月23日 (土)

当世学生気質 第45弾(さらばキャンパス その⑤最終章)

・・・・・・・・その④から続く

  タダノ教授の推薦で、小生が教員(非常勤講師)として、授業を始めたのは、2014年であり、授業は、前期は4年次の講義が一講座のみであり、後期は1年次と3年次の講義をそれぞれ一講座であった。4年次の講義の受講生は、約20人であったが、実際の出席者数は、平均10名前後だ。と、言うのは、会社説明会や、試験・面接、インターン、そして教育実習などで、出席できないというのだ。4年次生なので、仕方がないところもある。この場合は、欠席が認められており、公欠扱い(欠席扱いしない)というのだ。時にはたった2名で講義したこともある。こうなると、ほとんど家庭教師の世界である。一講座は、15コマなのであるが、8コマ欠席した学生がいた。比較的優秀な学生だったので、レポートの提出と期末テストで単位を与えることにした。授業の半分以上を欠席して、単位を獲得したのは、後にも先にも彼一人であった。

 

  小生の勤務していた大学は、男女共学なのでキャンパスは、華やかでもある。総合大学なので、文系の学部には、女子学生が多い。しかし、理工学部に、女子学生が入学したのは、2014年が大学史始まって以来という。この年のはじめに「STAP細胞はあります!」と、叫んだ若い女性研究者がいたのである。将来の女性ノーベル賞候補になるだろうということで、マスコミは「リケジョ」(理系女子あるいは理工系女子の略)として取り上げたのだ。しかし、その後、彼女は表舞台から消え、博士号まで取り上げられてしまったのである。

 それでも、一気にリケジョが女子高生の進路として、人気が出てきたのだ。その年(小生にとっては、初年度)の1年次の講義では、学生がトータルで100名くらい受講したのであるが、その中で女子学生が、3名ほどいたのである。

 

 小生にとっては、教室の中に女子学生がいたとしても珍しいわけでも気になるわけでもない。と、言うのは、現役の時代の職場では、優秀な成績で、理工学部を卒業した女性が幾人もいたし、はたまた、製造ラインには、高卒の若い女性もまた多かった。更に、薹(とう)が立った(年季の入った?)ご令嬢ごめんなさい!)も、これまた多かったのである。ただ、専任の理工学部の教員にとっては、理系女子学生というのに、慣れてない(免疫がない?)ので、結構気を使って、傷つけない(?)ように対処しているように見受けられるのだった。  

 小生にとっては、『そこまで気に留める必要などないのにな~!。普段通りしていればいいのに。それとも家庭で相手にされないオッサンなのかな?という程度に思えるのだった。休み時間に女子学生に、将来どんな職業に付きたいのか聞いたことがあった。「学校の先生」と、言う答えが多いように思う。ありきたりの回答であった。

 

 大学1年生の授業をやっていて、感じるのは、大学生というよりは、『高校4年生』を相手にしているようなのだ。たしかに、小生とは、世代が大きく離れているが、提出してくるレポートや、プレゼンテーション、授業中の質疑応答など、とても大学生を相手にしてい気がしないときがある。世代のギャップと言われるとそれまでだが、タメ口を言ってくる学生が結構いる。「ここは、割り切るしかなさそうだな。」と、思うのであった。そんなこんなだが、非常勤の教員生活が3年目となると、この生活も、それなりに楽しくなるから不思議だ。

  その年以降の、3年次の受講生がいきなり、2倍の40人くらいになるのであった。そして4年目以降になると、4年次の授業は、これまた40人くらいになるのだ。そして、その頃には、受講生として、女子学生が混じってくるのだ。小生の1年次の講座を受講した学生がチラチラ目につくのだった。小生の担当講座はすべて選択教科なのである。学生が講座を受講する理由は、授業を受けることが楽しいか、自分のためになるか、または、単位が取りやすいかのどれかなのだ。小生の授業の受講生が増えた理由は、最後まで分からなかった。(と、言うことにして、深く考えるのはやめた。)

 

 授業中に、レポートを書かせたことがある。「この授業を受けて、新しいことを発見したと思う。それを記述せよ。」という設問に対して大半の学生は、その講座内容に対しての新しい発見を記述したのであった。しかし、思いもよらない回答をした学生がいた。「先生の、着ているピンクのカーディガンは、思っているよりも似合っていること。」と、書いてあったのだ。間違いではないので、思わず苦笑してしまった。この学生には、三重丸を与えたものであった。優秀な学生であったので、当然単位は、ゲットしたのである。

 

 ややこしいことや、楽しいこと、新しい発見のあった10年間だ。次世代を担う、学生たちの一端に、何らかの影響を及ぼすことができたとしたら、それだけで、十分な時間を過ごせたと、感じるのである。こんなチャンスをくれた、親友のタダノ教授に感謝するのであった。

               ・・・・・・・・・・お終い。

2024年3月21日 (木)

当世学生気質 第44弾(さらばキャンパス その④)

・・・・その③から続く

 2020年に発生したコロナの影響で、2020年の一部と2021年は、リモート授業となったのである。小生の大学だけでなく、他の大学や小・中・高校はもちろんのこと、企業も在宅勤務が増えたのだから、止む得ないことなのだろう。しかし、このリモート授業は、クセモノであった。世間では、「いいな~! 大学先生は! 自宅で講義をすることができるんだな。好きなようにやっていればいいし、自宅講義は都合がいいよな。」と、言われたのである。おそらく大多数の日本人の認識だろう。ところがどっこい、そう簡単には、物事が進むことはないのだ。

 

 学長名で、対面授業からリモート授業への変更が非常勤講師の皆に連絡があったのだ。登校無用ということである。小生は、この通達を受けて、正直なところ”ゾーっ!!”と、したのだ。対面授業の資料を全て、リモート授業に適合させなくちゃならない。一回の授業(1コマ)で使用するパワーポイントは、大体50枚から、60枚である。そして時には、アニーメーション効果を入れているのだ。それを一講座あたり15コマ分を作成してあるのだ。小生が持っている講座は、3講座であるので膨大な資料をリモート授業用に手直ししなくてはならない。更にこれだけではない。そして、ビデオ授業用のビデオ撮りをも、やらなくてはならない。さらに、学生の理解度を毎回チェックするためにレポート提出への変更準備も大変だ。そして提出されたレポートもすごい数になる。それをチェックして、学生の評価をしなくちゃならないのだから、重労働になる。

 

 マイクロソフトの”TEAMS”を大学が準備してくれたので、作業のいくつかは効率よくできたのだが、それにしても凄い作業量が発生するのであった。とても初回の講義までに全てを揃えることができなかった。”自転車操業”状態である。次の授業までに・・・、そして次の授業までに・・・!こんな具合だ。それでも給与をもらっている身分であることと、学生相手であるゆえに、なんとかやり遂げたのである。マラソンの有森裕子がアトランタ五輪で、銅メダルを獲得した時に「自分を褒めたい!」といった、気持ちがわかるのであった。

 

 コロナが一段落して、対面授業に戻った時には、ホーッとしたものである。学生の表情を見ながら、授業のペースを変えていくことができ、理解度に応じて、内容を噛み砕いたり、ステップアップさせることを自由にできるのが、嬉しい限りである。レポート提出の頻度を調整して、期末テストの成績で単位の認定有無を判定することが、リモート授業と比べると、作業負荷は大幅に少なくて済む。そしてまた、現役を1度引退した小生にとって、何より週に1回だが学校に通うことが、素晴らしい気分転換になるのであった。これが、対面授業の魅力でもある。

 

 今は、教員生活からも、完全引退の時を迎えたのであった。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その⑤に続く

2024年3月19日 (火)

当世学生気質 第43弾(さらばキャンパス その③)

    ”その②”から続く

 大学の講義に対しては、学習指導要領などというものはないので、教員が講座名にフィットした内容で指導要綱を勝手に決めることができる。これは嬉しい。ただし、シラバスという授業計画書を提出(登録)しなくてはならない。各年次、前・後期に、それぞれ、15コマの授業に対して、授業内容、授業の進め方、教科書、事前学習、事後学習、評価基準を公にして、「この講座を受講すると、どんなメリットがあるのか」を登録するのだ。小生は、とりあえず、前任の担当者が作成したシラバスをコピーしアップデート(担当者の名前の変更など)したのである。一度登録すれば、毎年、若干の変更で済むから大きな負荷にはならない。

 

 小生が学生だった頃、担当教員から、シラバスのような計画書を提示されたことはない。教員によっては”教室に入ってきて、持ってきた自分のノートをひたすら板書して、時間が来ると勝手に帰る”などは、ザラだった。授業を真剣にやろうとする教員は、そんなに多くなかった気がする。『私の授業がわからないのは、学生が馬鹿だからだ!』と、あからさまな態度を示す教員もいた気がする。時には、当たっている場合もある。まあ、大学だからそれでいいのかもしれない。しかし、時代は変遷するのである。最近の大学教員は準備が大変だ。

 

 小生は、雇われ教員(非常勤講師)なので、シラバスにはいかにも、モチベーションが上がるような内容にして登録した。要するに形だけなのだ。特に、授業中に監視員がいるわけではないから、シラバスからは、少しくらい外れた授業を好き勝手にできるのである。「この講座を受講してもあまり役立つことはない。単位の足しぐらいにはなる。」などの本当のことを記述するわけにはいかない。そもそも、卒業すると、大学での授業の内容など覚えていない。本音は常に隠すことを、社会経験で、小生は、学んだのである(??)これが、世渡りの秘訣だ。学生にとっては、単位取得の条件となる評価基準(テストの有無、レポート、プレゼンテーションなどの配点比率)が大切な項目であり、あとのことにはあまり気にしてない。

 

 講義資料は、パワーポイントで作成して授業は、プロジェクターを利用し、進めた。格好いいようだが、なにしろ小生の手書きは、とても他人が読めるものでない。つまり乱筆なのだ。金釘流の免許皆伝なのだから、学生が読めるわけがないので、やむを得ずの理由なのである。パソコンは貸与可能であったが、資料をセーブしているので、自前で準備した。OA機器の利用に当たっての設備が、教室には備え付けられているのは、嬉しい。講義終了時刻は、チャイムで知らされるのであるが、その30分前~15分前には、終えるように心がけた。学生は、とても喜ぶのである。ひょうきんなものだ。しかし、時には、真面目な学生(稀にしかいない)がいて、ぶら下がり質問を受けることもあった。

 

 成績は、講義終了後に、または期末テストがある場合は、その後に登録する。ただし、小生の学科では、JABEE(日本技術者教育認定機構)の認証を受ける(継続する)ために、指定された点数の採点答案をコピーして、登録するなどの業務をしなければばならない。ややこしい限りであるがJABEEの認証を受けると、勤務している大学で実施されている技術者教育プログラムが、国際的な社会の要求水準を満たし認定されるのだ。企業で実施されているISOの品質管理や、環境管理の国際認証みたいなものだ。担当の教員(正規教員)にとっては大変な業務のようで、持ち回りで実施されているのが普通だ。「ご苦労さまなこったな!」というのが小生の率直な感想である。

 

 学生にとっての最も関心のあるのは、単位が取れる講義であるかどうかだ。中国の偉い政治家(多分、鄧小平だろう)の言葉がある。「黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ。」この言葉を少し変えて「面白い授業でも、つまらない授業でも、単位をくれる先生は、いい先生だ。」と、言うのが、学生の本音であろう。

            ・・・・・・・・・・・ その④に続く

2024年3月17日 (日)

当世学生気質 第42弾(さらばキャンパス その②)

        ”その①”からの続きである。

 ところで、大学教員に、免許や資格が必要なのだろうか。小・中・高学校は、当然のことながら、教員免状が必要であり、それは幼稚園・保育園でも同じように資格が必要である。では、大学教員は、どうなんだろう。どうやら、それぞれの大学で、教員になるための必要な資格や、業績(論文や書籍の出版など)はバラバラのようである。私学であろうと、国公立大学であろうと同じだ。要するに、公募されているのだから、その募集要項をチェックして、自分の行きたいところを目指して応募すればいいというのである。または、企業でもコネ入社があると同時に、大学もまた、ツテコネが幅を利かせることもあるようだ。しかし、書類選考後は、主に面接で、決まる。まさに企業応募と同じなのである。ただし、正規の教員になろうとするならば、博士号を取得すること(取得見込み)であるぐらいが、必要なくらいだ。

 

 それでは、小生のように、非常勤講師の場合はというと最低でも、学位は必要だ。(修士・博士号を持っていると、給料が上積みされる。)特に際立って、業績が必要なければ、論文も必要ない。タダノ教授のような人脈の広い教員(元教員でもいい)の推薦があれば、学部長の面接もなければ、学科長の面接もない。こんなシンプルなのは、小生が採用された場合だけかもしれない。一般的には、手続きは大学によってマチマチなので一概に述べられない。

 そんな小生だったが、学科の準備室で、事務的な説明を採用前に受けたのである。その後、自宅に採用書類が送り届けられたので、それにサインして、返送した。これで、4月から教員として、教壇に立つのである。驚くほど簡単であった。前記事でも紹介したように、実施した講座のコマ数に対応して、手当(給与)が決めているのだが、大学によっては、講座数に対応した月給制の場合もある。そして毎年の契約更新が必要である。(ただし、小生の場合は、10年間給与は上がらなかった。残念!!)

 

 講座の初日は、まず大部屋控室に行く。非常勤講師が20~30人いて、準備に忙しい。空いている席をなんとか見つけて、小生も準備を開始だ。全部の学部を合わせると、約200人くらいの非常勤講師が契約しているのだが、当日の担当は、20~30名くらいであり、大部屋は、いつでも混雑している。とは、言っても満席ではない。空いている席があるので、そこに座る。まずは、身分証(ID)を受け取る。出席の印鑑を押して、手続完了であった。お茶やコーヒーはセルフサービスという。一息ついて、それから教室に向かう。

 昼飯は学食が利用できた。安いが、混雑が酷いので数回利用しただけで、弁当に替えて、控室で食うことにした。この方が、ゆっくりと食うことができたのであった。

 

 初回の講義前は緊張するのだったが、すぐに慣れて緊張がとける。なにしろ学生からしてみたら、ベテランであろう、新米教員であろう、ただ大学の教員から授業をうけるというだけなのだ。小生もベテランのように振る舞っていればいいのである。(役者やの~!)授業も数回続けると、慣れてくるものだ。逆に学生たちの態度や振る舞いを観察する余裕ができるようになったのだある。小生が学生だったときの生活と比較してみると、時代の変遷を感じるのであった。それらは、(当世学生気質という連載記事でこのブログにまとめた。この記事もその1つである。)

 

 まず、学生の出席管理は、入り口で、カードリーダーに学生証をかざすとそれで完了だ。簡単に言うと、学生証はICカードになっており、SUICAやICOCAと同じ理屈だ。「便利になったものである。」と、感心したのだが、学生によっては、3~4枚の学生証をカードリーダーに読ませているのに気がついた。小生が学生のときは、”代返”(ダイヘン)や、出席表の提出である”代筆”(ダイヒツ)が、流行っていたのだ。それに替わって、”代タッチ”で、出席をごまかすのである。(なかなかやるの~!)変に感心したものである。

 

 そこで、”代タッチ”に対抗して、小生は、授業最後に出席票を配り、サインさせて提出を求めたのである。しかし、名前の記述だけの提出なので、これまた、”代筆”でごまかす輩がでたのだあった。学生の何人かはこの両方をやっているようだ。それならば、と、言うことで、学生に「先日、50万円で、筆跡鑑定機を購入した。これで、代筆がわかるのだが、それで判明した場合は、単位失格とする。」と、講義中に宣言したのである。これが効果をしたのだろう。確実に、学生証の代タッチと、出席票の代筆が減ったのである。よく考えればわかることなだが、筆跡鑑定機などあるわけがない。(あったとしても高額だ。)しかし、刑事ドラマなどで、そんな話があり、手軽に存在する気がするのが学生だ(?)。彼らは、単純なのである。

          ・・・・・・・・・・その③に続く

2024年3月15日 (金)

当世学生気質 第41弾(さらばキャンパス その①)

  関西の大学教員生活が、10年になり、ついに引退の時期が来たのである。古希を迎えた学年度末で契約が終了するのは、採用の時から、決まっていたのである。

 小生は、会社生活を定年の1年4ヶ月ほど早期に退職したのだった。そのまま隠居しても、良かったのだが、もう少し社会とつながりを持つのも悪くないとして、タダノ教授の紹介もあり、大学の非常勤講師をやることにしたのである。タダノ教授は関東の大学で、当時は理工学部の学科主任であったのだ。彼の広い人脈をもって、小生の地元である関西の大学を紹介してもらったのだ。そして、大学とは、非常勤講師という立場で契約したのだった。

 

 関東では、大学入試偏差値に応じて、”早慶上理”とか日東駒専また、”GMARCH”と、ランク付けされているが、関西では、”関関同立”、”産近甲龍”それに”摂神追桃”というのが対応するのだ。(ネットで検索すれば、これが何の略なのかが簡単にわかる。興味があったら、検索してみるといい)小生は、この中にある一つの大学に勤務することになったのだ。

 

 非常勤講師は、兼任講師と呼ばれる時もあり、大学では、授業のみを担当する。そして、大部屋が、控室である。1年契約で、毎年更新するのだ。報酬は、1コマが、2万五千円~3万円くらいなので、夫婦と子供二人の生活を維持しようとしたならば、週に10コマ程度の授業を受け持つ必要がある。なかなか厳しいものだ。1コマが90分授業(大学によったら100分授業)である。つまり、最低でも、1日3コマを週3日やる必要があるのだ。そして上位の学位を獲得しようとする(小生はその必要がない)ならば、残りの時間を研究や、論文作成に当てるのが、実情である。結構厳しい生活である。

 

 なお、専任教員(専任講師、助教授、准教授、教授)となると、研究室が与えられ、生活が保証され、年収は、最低でも300万円、普通は500万円以上となる。こればかりは、いくらやる気があっても、実績(学位、論文や出版など)と人脈(コネ)が幅を利かせているし空きのポジションがあるというタイミングが必要である。当人が優秀であることはもちろんのこと、意欲があっても難しいものだ。

 ただし、学生は、非常勤講師であろうと、専任教員であろうと、ほとんど気にしてない。全て、先生である。小生も、”教授”と、学生から呼ばれたことが幾度となくあったが、それを特に否定はしなかったのである。(無意味だからだ。大学教員は、みんな教授と思っている学生もいるのだ。)

 

 非常勤講師というのは、ただ学生を教えて、評価点を与えるだけが契約上の責務である。それ以外の雑用が一切ないというのが、正直に嬉しい。学生の就職に関係する必要もない。その上、学内イベント(学園祭など)に、関わることもない。入学や、卒業にも直接は携わることはない。ただ、講義をやって学生を評価をすればいいだけなのだ。小生のように一度は社会人を引退した人にはぴったりかもしれない。

 

 10年間もにわたり、学生を相手にしていると、世代によっての学生気質の変遷が、わかるのである。当初の学生は、授業中の私語が多く困ったものであった。しかし、ここ数年の講義での学生の私語は、殆どない。スマホを机の下で隠れて、操作するのに精一杯(?)ということで、私語する余裕がないようだった。小生は、学生に対して、毎学期初回の講義で、「眠たければ、寝ればいい。ただし、他の学生の邪魔をするな!また、スマホ操作は、講義中は、やめること。なぜならば、俺がイライラするからだ!」と、説明している。寝るような授業をやるのは、小生の講義の進め方がよくないからだという反省を込めての認識なのだ。スマホ操作を机の下で、やっている学生を当初はチラホラ見受けたが、その都度注意することにとどめておいた。

 

 ただし、授業を始める前から寝ているやつがいるのには、少々呆れたものだ。じゃまにならないから、起こす必要もない。時々は、スマホ操作をやっている学生を見出すために、突然教室の照明を落としたこともある。スマホ操作しているやつの机の下から、青白い明かりが上っているので簡単に見つけ出すことができた。そして警告を与えるのである。殆どの学生は、素直に、スマホの操作をやめるのであった。

 

 口頭での警告を繰り返してもスマホ操作や、私語をやめない学生に対しては、強い言葉で、警告するときもあった。ところがあまり強い言葉で叱られたことのない学生が、大学の学生課に小生の言葉使いの悪さをチクった(”訴えた”?)のである。講義を終えて、控室に戻ると、学生課の職員(若い兄ちゃんだった)が待ち構えるように、小生にお願いがあるという。「授業中に、ヤーさん言葉で話さないようにしてほしい。テレビドラマの”暴力団の事務所”みたいだと、学生からクレームがきた。」というのだ。「特に差別用語は絶対に使わないようにしてください。最近の学生は、そんな言葉遣いに慣れてないのですから。」と、平身低頭で依頼してきたのだ。若い兄ちゃんが、泣きそうな顔で頼んでくるので、「了解しました。」と答えたら、安心して、部屋を出ていた。職員も辛いもんだ。

  その後も、この職員に2度目のお願いを言われる懲りない小生であった。「職員さん、ごめんなさい!」と、心に思う次第であった。

 

 その後、口頭注意は、やめにした。その代わり、サッカーの試合を真似たのであった。反則があった場合、時には審判がイエローカードや、レッドカードを掲げるのみて「これだ!」と、思ったのだ。スポーツ店で、本物のイエローカードとレッドカードを購入(もちろん自腹で)して、態度の悪い学生に、カードを上げて提示したのだ。(ただし、レッドカードは一回だけだった。)周りの学生もその意味がわかる。その学生は、一瞬、緊張するようだ。それが面白くてこんなパフォーマンスをやっていたのである。

 

 講義は、学生だけでなく、小生もまた楽しまなくてはならないのだ。そもそも、前述したように、ここ2~3年はおとなしい学生だけになってしまったのだ。休み時間は騒がしいが、講義中は、いるかいないかわからないような学生が増えたのである。イエローカードや、レッドカードを出す機会がなくなってしまった。

 

 このような楽しい(?)講義も、ついに終わりをむかえたというわけだ。タダノ教授には、知らせておく。彼は今でも、学生相手に研究活動しているようだ。ちょっと尊敬する。近々、酒盃を傾けながら、お互い、昔話に花を咲かせるつもりなのだ。気のおけない彼と懇談するのが、昨今の楽しみの一つである。

 

      ・・・・・・・・・・その②に続く

2023年1月20日 (金)

エジソンと電球(当世学生気質40弾)

 「白熱電球を発明したのは誰か?」と、質問を学生にすると、10人中9人までが「エジソン」という答えが返ってくる。これは無理もないかもしれない。小学生の時から、「電球はエジソンが発明した」と、記憶に埋め込まれてしまったいるのだからだ。しかし、大学の理工学部の学生ならば、「それは違う!」と、言ってほしいものである。

 

 世界で最初に電球を発明したのは、ジョゼフ・スワンという英国人なのだ。1879年1月2日に、ニューカッスル・アポン・タイン文学哲学協会の講堂で700人の聴衆の前で、電球の点灯実験を成功させているのだ。これが世界最初の電球の点灯とされているのである。しかし電球の寿命は40時間くらいだったのだ。当時は、これでも実用にはなったようである。

 

 エジソンは、ジョセフ・スワンに遅れること約8ヶ月後の1879年10月21日に木綿のフィラメントを用いた電球の点灯に成功している。この後、エジソンは、フィラメントの素材を色々と追求して、ついに、日本の竹を素材にしたフィラメントが寿命が長いのを見出して、実用化に大きく寄与したというわけである。

 

 エジソンがエライ(偉い?)のは、この実用化と、幅広い特許の取得だ。当然、ジョセフ・スワンとは、特許闘いになったのだが、共同の会社を作ることで合意している。エジソンは、電球以外にも、レコードや映画の特許も取得しているわけだから、結構な金持ちになっているはずだ。知的生産権をしっかりと確保するところなどは、まさにアメリカ人なのである。

 

 電球は、ジョセフ・スワンが発明して、それを広く実用化したのがエジソンなのである。だからエジソンはエラい人なのだ。

 

 その電球も、いまではLED置き換わられようとしているのだから、技術の進歩には、眼を見張るものがある。エジソン先生は、LED電球をどう思っているだろうか(!?)気になるところである。

2022年2月10日 (木)

リンゴと万有引力(当世学生気質 第39弾)

  「重力を発見したのは誰か?」という質問の、答えは、「ニュートン」である。そして、「ニュートンは、どうやって重力を発見したのか?」という質問に対して、「りんごが落ちるのを見たから。」というのが、答えだ。バラエティ番組のクイズであれば、これで正解ということで、次の問題に移っていく。

 

 しかし、今更これが正解だと思っている理工学部の学生はいないだろう。ニュートンが万有引力の法則を発見したのは、事実だが、りんごが落ちて、それを見て発見できるわけがないのは、当然である。ではニュートン先生は、なぜ、リンゴの例えを持ち出したのだろうか。ちょっと、タダノ教授と話してみた。

 

 この物理学(特に力学)領域になると、一般の人にわかりやすくするために、ニュートン先生は、リンゴを持ち出したのではないか、と、考えているのだ。では、いったいニュートン先生は、どうやって万有引力を発見したのであろうか。当然のことながら、天文学が絡んでいる。

 

 16世紀のはじめにコペルニクスが地動説を唱えたのである。天体(惑星)の動きを観測して、「太陽は、地球を中心に回っている。」という天動説では、説明がつかず、「地球が太陽の周りを回っている。」としたのである。発想の大転換である。コペルニクスは、協会から迫害は受けなかったが、この説を、展開したガリレオは、宗教裁判に掛けられている。聖書の教えからは、反するから、仕方がないのだろう。

 

 コペルニクスは、太陽を中心として、惑星は、円軌道を描いているとしたが、次に出てくるのは、ドイツの天文学者であるケプラーだ。彼は、3つの法則を発見している。

 

1,惑星の動きは、円運動ではなく、楕円運動であること。

 

2,その時の面積速度が、一定であること。(面積速度一定の法則)

 

3,惑星の公転周期の2乗は軌道長半径の3乗に比例する。(調和の法則)

 

 ちょっと専門的すぎるが、そんなに難しくはない。これらの3つの法則と微積分の計算を行って、「質量の積に比例して、距離の自乗に反比例する。」ニュートン先生は、万有引力の法則を見出したというのだ。そしてこれをまとめ上げて、「プリンキピア」という書物にまとめたのである。

 

 タダノ教授によると、高校の数学の知識があれば、十分に理解できる内容だというのだ。ただし、原本は、ラテン語で記述されているので、タダノ教授は、読むのを諦めたのだが、英語の翻訳で、読んだというのだ。(小生は、こんなややこしいのを読む気はないのである。反省!!)

 

 タダノ教授が、憂いているのは、「りんごが落ちるのを見て、万有引力を発見した。」という話が、有名すぎて、なぜ、どうやってニュートンは、発見したのかに対して、思考が停まってしまうことだ。たしかにリンゴの話が出ると、それから先の理論を深堀りしようという気持ちがやや失せてしまう。要するにわかった気になってしまうのだ。プリンキピアには、りんごの話など一つも出てこない。あくまでも例えであるが、例えが有名すぎると、それが真実になってしまうのだから怖い。

 

 今の学生に、ニュートンと、リンゴの関係を問いただしてみるかな。どんな回答が来るのか楽しみだ。

2021年3月29日 (月)

遠隔授業:その2 実践編(当世学生気質37弾)

その1準備編から続く

 

 初回の授業は、遅れに遅れて5月末になったのである。『緊急事態宣言だから、仕方がないのである』と、割り切るしかなかった。まずは、受講学生に、指示を出さなくてはならない。対面ならば、口頭で説明するのだが、遠隔ではそうはいかないのである。事前に受講要項なるものを作成し、受講にあたっての注意事項を読んでもらうのだ。真面目に読む学生と、いい加減に読む学生との差がすぐに現れる。何しろ、読んでない学生は、レポートの提出期限を守らないのだ。(と、言うより、締め切りという概念がないのだから困る。)

 

 学生に同情する気にもなるというものだ。対面だと、良くも悪くも、授業に出席した感覚があるのだが、そして、仲間とのコミュニケーションも取れるというものだが、遠隔授業ではそうはいかない。あくまで自主性が頼りというのだ。初回、2回目ぐらいは、緊張感があるだろうが、それが10回目くらいとなると、ほとんど惰性になる。学生も辛いだろうと思うと、同情したくもなるのだ。毎回、講義ではパワーポイントで出来上がっている授業資料を読んでは、レポートを作成して、それをアップロードすることで、授業が仕上がるというわけだ。

 

 教師の方も授業終了後が大変である。授業中に不明なところは、学生がメールで問い合わせてくるのだ。これに真摯に答えなくちゃならない。そして、毎回レポートをすべて読んで、採点しなくちゃいけないから、これまた一仕事である。授業資料を満足に読んだ学生とそうでない学生を仕分けるには、提出されたレポートを読むのが一番だ。(と、言うよりこれしか方法がない。)学生は、ただ提出すればいいだろうと思っているようだが、採点するのは一苦労である。提出されたレポートをチェックして、授業に取り組んだ学生と、そうでない学生との区別を区別するのである。

 

 期末テストは、結局取りやめざる得なかった。その代わり、少しばかり、しっかりとした記述が必要なレポートに代替したのである。その作成も苦労したが、その甲斐があった。真面目な学生とそうでない学生がひと目で分かる課題が作成できたのだ。

 

 なんとか最終講義までこぎつけて、成績評価をすることになった。これまた大変である。レポートを読むだけで、すべてを判断するわけだが、実際はそうはいかない。どうしても必要に応じてレポートの不明点を、確認のために、メールにてやり取りする必要が生じた。理解度を判定するのは、難しいものであった。なんとか、成績を入力して、やっと完了である。

 

 遠隔授業は、キャンパスに出向かなくて済むから、楽だろうと思われるだろうが、とてもそんなもんじゃない。とにかく準備を後始末が大変だ。こんなに苦労するならば、対面授業と、期末テストの実施のほうがはるかにスムーズだ。

 

 次年度は、対面に戻すことを基本的に大学は考えているようだ。しかし、遠隔にも変更できるように、準備することの、通達が、送られてきた。小生としては、なんとしても対面授業をやってほしい。切にそう願う次第である。

2021年3月25日 (木)

遠隔授業:その1 準備編(当世学生気質36弾)

 2020年は、大学生にとっては、大変な年度であったろうと思う。何しろ、キャンパスに行かないで授業を受けなくてはならない。コロナ禍が恨めしく思えたろうと、用意に想像がつく。しかし、大変なのが学生だけでない。教える側の先生も大変なのである。以前、当世学生気質30遠隔授業について述べたのだが、ようやく年度が終わったので、改めて今回と次回に渡って、遠隔授業のまとめをしてみる。

 

 まずは、年間の授業計画を提出しなくてはならない。この計画書をシラバス(こんなのは、小生の学生時代にはなかった)というらしい。1月末には仕上げたのである。そして、新年度の授業の教材準備だ。小生の担当は、新しい技術をトピックスとして取り上げるのをメインとしているため、常に、最新のテーマを学生に授業として提供しているのだ。パワーポイントで作った教材をもとに、対面での授業を前提に作っているのだ。2月から3月にかけてなんとか新年度版を仕上げたのである。これで、準備万端だと思っていたのであった。

 

 しかし、3月にコロナ騒ぎが起きて、新年度の授業は5月末から開講するとの連絡が入った。つまり予定の授業数を圧縮する必要が生じたのだ。簡単に言うと、「シラバスを修正しろ!」という業務命令が来たということだ。『長い人生だ。こんなこともあろうな!』と、諦めて修正に取り掛かり、やっと完了したと思ったら、今度は、「緊急事態宣言」だ。キャンパスが立入禁止になったのである。今度は、「遠隔授業にしろ!」という業務命令だ。

 

 対面授業である前提で、すでにすべての授業資料と授業計画を作成し終えていたので、根本からの修正が必要になる。これには正直、参ってしまったのだ。資料を初めから作り直しの開始だ。そしてテストや、レポートの提出方法も変更しなくてはならない。

 

 大学の事務局からは、遠隔授業をやるにあたっての利用できるツールが提供されたのであった。Moodle”WebFolder”と、それにTeams”だ。そもそもこんなソフトは使用したことがなかったので、まずはマニュアルを読んでいかねばならない。その中でも、根性ある教師は、動画作成に取り掛かるだろうが、小生には、その気がない。そもそも動画でやる授業など必要がない講座なのだ。それでもオンラインでやる気があれば、巷で人気の”ZOOM"を利用しても良いのだが、大人数なので、大変になるから止めた。結局、学生に連絡用に”Teams”を使い、教材・課題は”WebFolder"を利用することにした。

 

 徹夜まではしなくて住んだが、一ヶ月間、18時間以上パソコンと向き合わなければならなかったのは、かなり辛いものだった。なんとか初回の授業に間に合ったのは、幸いだった。(というより、間に合うようにしたのだ。)

--->その2に続く

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