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思いつくまま

2025年6月20日 (金)

性弱説

  タダノ教授と話をしていたときのことである。彼は、科学・技術のみならず、経済や、心理学にも幅広い知識を持っている。彼との盃を傾けながらの懇談は、楽しいものであった。特に互いに古希を過ぎたあたりからは、昔話に花を咲かせるのが常だった。主に、昭和の話が多いのは、二人共夢と希望が溢れていた時だからなのかもしれない。そんな彼と、哲学談義に花を咲かせるのも楽しいものだ。何しろ、小生とタダノ教授は、屁理屈が大好きときているのだ。

 

 「性善説と性悪説」が、あるのを知っているよな。」と、タダノ教授。「人間の自然本性(生まれつきの性質)は善である」とする説と「悪である」とする説のことだ。」そして、これは古代中国の儒家の『孟子』と『荀子』の対立に由来することを学校で習った覚えがある。性善説は「人はみな善人である」という楽観主義、性悪説は「人はみな悪人である」という悲観主義、といった意味合いで広く使われているものだ。しかし、本来は、「教育の重要性」を主張するための説であったのだ。

 

 タダノ教授が初めて聞く面白い説を言い始めた。性善説でなく、性悪説でなく、それは、「性弱説」というものだった。たしかに面白そうだ。「つまり人は、生まれながら膳とか悪とかで区分けされるものではなく、そんなに強いものではない。」という説だ。生物は、生存本能を脅かされると、生き残ることを最優先に、行動するものだという考えである。そんな状況に置かれると、道徳や倫理、法律などを超えて生存のために利己的な行動を取るという思いなのだ。たしかにこの説には説得力があると小生は思った。

 

 身近では、道でお金を拾っても届けない人がいるし、優先席の前に年寄りに譲らない人を見ることもある。道徳的には、許されないことだろうが、人間というものは弱いものである。また、飢餓に苦しんでいる人が、食べ物を盗んでしまう人を責めることができるだろうか。映画の世界だが、我が子の心臓移植手術のために、立てこもりの犯罪を犯す親を主人公としたのがあった。本来は、人間は善であるが、弱いものである。

 

 企業の不祥事なども、ひょっとしたら、性弱説なのかもしれない。本来、企業は"善”でなければ、存続は難しいのだ。しかし、経営幹部の判断でトラブルを誤魔化したり、欠陥を隠したりする。バレると、関係者一同揃って頭を下げるシーンが繰り返されるのだ。こんなことは、最近日常茶飯事になってしまったのか、さほど驚かない。だからこそ、企業では、ガバナンスが、大切なのだ。

 

 性弱説と、言う言葉を初めて知ったのであり、日本人の優しさが、その言葉にあるということなのだ。考えてみると、小生などは、性弱説を地でいくらい弱い人間だったと思う次第だ。それにしてもタダノ教授は奥行きの広い洞察力を持っているものだと、あらためて、感心した。

2025年6月10日 (火)

牽強付会(けんきょうふかい)

 タダノ教授と世間話をしていたときのことである。政治家や、企業の不祥事に対しての会見を聞くと、どうも自分に都合よく解釈しているのが、目立つという。小生もまた同意見だ。タダノ教授は、これを「けんきょうふかい」と言って、切り捨てたのである。小生にとって、聞き慣れない言葉であったので、この意味を調べてみた。

 

  ”牽強付会”、この四文字熟語は、知らなければ、読めない(当然だ!)。この”牽”は、「けん」と読み、引っ張ることを意味する。これでもJIS大1水準の漢字である。「牽引(けんいん)する」のような使われ方をしているな。列車の先頭車両(動力車両)を牽引車両と言うこともある。牽引車は、レッカー車のことだ。

 

 ”牽強(けんきょう)”という使われ方を、ネットニュースで知ったのである。この意味は、『道理にあわないことを、自分の都合のいいようにこじつける』という。”付会”『同じように自分の都合のいいようにこじつける』という意味なので、強調のために同じ意味を重ねた四字熟語というのだ。

 

 なるほど、自分の都合のいいように無理やりこじつけて言うのだ。まさに昨今の政治家や、不祥事を起こした企業トップや、はたまた事件を起こした人気芸人、などの会見を聞くとこの言葉がしっくりとするのだから不思議だ。

 

 別の言葉に置き換えると、屁理屈 こじつけ でたらめ
詭弁 論理のすり替え 論点のすり替え
などとなる。こっちのほうがわかりやすいかな。

2025年6月 5日 (木)

注意資源

 タダノ教授と呑んで懇談していたときのことである。やはり古希をすぎると、小生と同様に、認知力が落ちたのを時々感じるというのだ。年齢からくる認知力や、注意力が劣ってくるのは仕方がないと諦めていたのである。タダノ教授によると、この注意力(認知力)には、人それぞれ限度があるというのだ。2002年にノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カールマンという学者が注意資源という考え方を提唱したというのだ。

 

 注意力には、限度があるという考えなのだ。齢を取ると、確かに注意力が落ちるのは、自らの経験でよく分かる。現役時代は、3~4つぐらいの仕事を並行して、当然のように処理していたのだ。最近は、一つの仕事ならば、十分に集中できるが、3つも4つも並行してはできない。これが普通なのだろうと思っていた。ところが、この「注意資源」という考え方というのは、チョット違う。注意力には限度があるというのだ。一つのことに集中できるのは、個人差があるものの90分程度が限度であるという。複数のことを同時になろうとすると、集中力が分散されて、注意力は枯れてしまうという理論である。確かに経験からも、納得できる。ただ、この理論の良いところは、注意資源は復活できるというのだ。森林を散歩したりなど、自然を相手にすることで癒やされる。そうすると、復活するというのだ。時々リフレッシュすればいいというわけだ。

 

 聖徳太子は、7人を相手にして、話を聞き、それぞれに対して、的確に回答したという。すごい認知力と集中力だ。つまり、注意資源がたっぷり有ったということだな。小生のような普通の人間は、せいぜい2~3人の話を聞くのが精一杯だし、古希をすぎると、そもそも聴力が落ちてくる。これも注意資源が減ってきたのかもしれない。

 

 しかし、一方、近くの図書館では、10時オープンと同時に、「ド、ド、ドーッ」と、隠居中のご老人(?)が数名入場してくる。そしてすぐに新聞掛けのところに行き、当日の新聞を2~3ほど持って、ベンチや、ソファに座り読み始めるのだ。まさに一心不乱であり、これを日々のルーチンにしている人たちなのだ。午前中いっぱい(時には午後も)読みふけっているのだ。「この人たちは、すごい集中力だな」と、感心するのであった。注意資源が、まだまだ落ちない人なのかな。と、思っていたが、どうやら、自宅で相手にされない隠居したオッサンの都合の良い行き場所となり、時間つぶしに利用しているのであった。家にいて、カミさんや家族から、「濡れ落ち葉(まとわりついて離れない)」など、と、言われるよりマシなのかもしれない。

2025年5月20日 (火)

荒牧バラ公園(2025)

 毎年この時期になると、関西は、バラが見頃となるのである。満開のバラ園は、圧巻である。関西でもいくつかのバラ園があり、どこも甘い香りがしているようだ。京阪神地区では、015_20250517200501 小生の地元の伊丹市荒牧バラ公園が有名であり、ニュースなどでも取り上げられる。何しろ伊丹市は、このバラ園を入場無料にしているのだから、太っ腹だ。(注:駐車料金は取られる)小生のブログでもいくどとなくこのバラ園を取り上げているのだ。何しろ、ランニング練習コースにあるので、シーズンでは、ここで休憩してバラを楽しむのである。

 

 5月と11月の年2回、このバラ園でのバラを楽しむことができるのだ。特に地元で品種改良013_20250517200601 016_20250517200601 され名付けられた”天津乙女”と”マダムヴィオレ”には毎回挨拶することができるのであ。休日は、一般の見学客でかなり混雑しているが、平日は、この地域(伊丹、川西、宝塚、能勢町など)の老人ホームの入居者が遠足(?)に来ているのである。要するに車椅子の集団が、あちこちに見ることができるのだ。介護士が一所懸命にケアしたいるのがわかる。これも無料で楽しめることができるからだろう。

 

 そこそこに楽しんで、ランニングを続けるのだった。今度は、11月にまた楽しめそうである。

018_20250517200601 014_20250517200601 017_20250517200701 029_20250517200701 026_20250517200701

2025年4月30日 (水)

逆説の10か条(ケント・M・キース)

  現役時代のことである。取締役の部屋に呼ばれたときであった。今となっては、なぜ呼び出されたのかは忘れたのだが、その取締役の部屋の壁にに”逆説の10か条”というのが、貼り出されたあったのだ。なかなか意味深の格言みたいなものであったのだが、読んでみると記憶に残るいい内容であったのだ。この取締役は、職位を鼻にかけるような人ではなく、人望があるのだった。(ちょっと珍しかった。)

 

 毎度のことながら、親友のタダノ教授(と言ってもすっかり引退したのであるが)と飲んで話しているときのことであった。この”逆説の10か条”が話題に上がったのだ。小生は、何気なく、以前の職場で見かけたと話しただけなのだが、流石にタダノ教授だ。この格言の、いきさつをよく知っていたのだ。本当に彼の博識には感心するのだ。

 

 ケント・M・キースという青年がハーバード大学に在学中で19歳のときに、高校生のリーダークラスを相手に講演したときの述べたというのだ。今はアメリカの行政官僚をやっているというのだ。そして、、この青年は、小生の世代とは、わずかに5つほど年上だという。このオッサンは、ハーバードだけでなく、オックスフォードで学び、更に早稲田大学でも学んだという。そしてハワイ大学で、法学博士号を取得しているのだが、天才なのであろう。タダノ教授や小生たちは、理工学なので、畑違いであるが、彼の素晴らしさは十分に理解できる。アメリカには、こんな天才がいるものだと、タダノ教授といっしょになって感心したのであった。

 

  ここからが、タダノ教授の博識の一旦なのだ。この”逆説の10か条”を広めたのは、マザーテレサだというのである。彼女が、この格言に触れて、とても感動したらしく、広めたのだった。その時は、マザーテレサの言葉としてだったようだ。作者当人がこんなに広まったのを知ったのは25年後だというのにもまた驚きである。長い年月をかけて今日に至るまで、口伝で、写しで、インターネットで、作者本人の知らない間にゆっくりと広まり、今では、世界中で愛される格言となっている。今では、この行政官のオッチャンの言葉だということで、広く知れ渡っているのだから、マザーテレサの力をあらためて確認する次第だ。

 

 逆説の10か条

 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。

 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

 もっとも大きな考えをもったもっとも大きな男女は、もっとも小さな心をもったもっとも小さな男女によって撃ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

 人は弱者をひいきにはするが、勝者のあとにしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。

 人が本当に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

 

 

2025年2月 5日 (水)

東宮御野立所(とうぐうおのだちしょ)

 ”東宮御野立所”をこの令和の時代に正しく読めて、その意味が分かる人はどのくらいいるだろうか。そもそも御野立所というのは何なのか。辞書で調べてみると、「野立」の読み方だが、”のだて”と読むときと、”のだち”と読むことがあるようだ。二通りの読み方の違う理由は、調べてもわからなかった。小生のパソコンでは、”のだち”として、変換すると、一発で漢字変換ができた。意味は、野外での休憩するという意味のようだ。だから、”野立所”は野外休憩所のことだ。接頭語である”御”がついているのは、高貴な方(つまり天皇などの皇室の方)の意味だ。 御野立所(”おのだちしょ”とよむのが普通であるようだ)とは、天皇などの高貴な方の野外休憩所という意味である。

 

007_20250127160901 005_20250127160901 001_20250127160901  小生の住んでいる伊丹市から、大阪空港へ行くには、”猪名川(いながわ)”という一級河川を横切るために、橋を通003_20250127161101 ることになる。いくつかあるのだが、片側二車線の国道171号線の橋である”軍行橋”を利用するのが常だ。(小生のランニング練習コースでもある。)ところで、この勇ましい橋の名前であるが何故”軍行橋”と、名付けられたのか、気になって仕方がなかった。その答えとなるのが、東詰の記念碑である。

 

 軍行橋の空港寄り(軍行橋東詰になる)の上流側堤防に、石碑が立っている。”東宮御野013_20250127161101 011_20250127161101 立所と読めるのである。”東宮”というのは、皇太子のことである。明治時代であるから、後の”大正天皇”のことだ。要するに、大正天皇が皇太子時代にここで、立ち止まって休憩したということなのだ。明治44年11
月に北摂地域で陸軍第16師団(京都)と第4師団(大阪)対抗の大演習が行われたという。大正天皇がそれを閲覧したということなのである。伊丹市のホームページに書かれていたのを見て納得したのだった。その後、この場所に橋がかけられて”軍行橋”と名付けられたのだった。

 

 ランニングの練習をして、気になっていたことが、一つ解決したのであった。また、東宮御野立所は、調べてみると、日本各地にあるようだ。天皇と皇太子は、全国アチラコチラに出向くのだから、当然だ。

009_20250127161201 017_20250127161301018_20250127161301 019_20250127161301  この軍行橋からは、大阪空港の航空機誘導灯が見え、滑走路を飛び立つ航空機を見ることができるのだ。

2025年1月30日 (木)

鬼手仏心

  タダノ教授と毎度のことながら、一杯呑みながら、話していたのだった。小生も彼も、すでに古希を過ぎている身だ。すでに、子どもは独立して生活しているので、それぞれのんびりとなんの苦労もなく生活しているのである。タダノ教授は好きな研究に取り組み学生を相手にし、小生はゆっくりと、ウォーキングや、ジョギングを楽しんでいるのである。タダノ教授は、現役時代は、学生相手に結構厳しいことを要求していたみたいだ。一人前の研究所としての気構えができてない学生に、かなり理詰めにて、追い詰めるようなことで、対処していたらしい。今で言うところの、パワハラ、アカハラの少し手前までのことであったのだ。

 

 それにしてもややこしい時代になったもんである。小生や、タダノ教授は、指導教官から、強く叱責を受けて育った世代である。「なに、クソ!」精神で、学生時代を乗り越えたものである。子供に対して、親が厳しく指導するのは、当然だった世代た。そして、小学校や中学校の教師から、どつかれた世代でもあり、それが、当然だったのだ。(今なら、アカハラだ。)しかし、そんな中でも、どんなにどつかれたとしても、尊敬していた先生がいたのも事実である。親にしても先生にしても愛のムチという言葉が示すように、子供に対して、正しく育ってほしいために、行うものだというのだった。今ならDVであり”いじめ”でもある。

 

 仏教用語(性格には仏教用語の組み合わせ)に”鬼手仏心”(きしゅぶっしん)というのがある。鬼手とは、囲碁や将棋などで、相手の意表を突く手を指すことである。時には、鬼の手を意味することもまある。仏心とは、そのものズバリだ。仏の心、優しさを意味する。四文字熟語の”鬼手仏心”となると、ちょっと意味が違ってくる。この言葉は、病院の外科医が手術する時の心がけになっているのだ。患者の体をメスで、傷つけるが、それはあくまでも、病気を治すためなのだ。メスを持つ(鬼手)ことが残酷で大胆だが、それは、患者を治療しようとする心によるものなのだ。父や母が、子供を厳しく躾けるのは、これもまた鬼手仏心によるものであろう。

 

 この鬼手仏心の類語に”鬼面仏心”がある。タダノ教授と呑みながら話をしたのであるが、仏心は、慈悲の心であり、他人を慈しむことなのだが、昨今の風潮では、”鬼手”はよっぽど注意して、使用しないとすぐに訴訟に発展しそうだ。住みにくい世の中になったものである。タダノ教授と小生はガミガミ爺となるか、好々爺となるのかはわからない。認知症が現れて(?)から、他人がどっちなのか決めてくれるだろう。そんな情けない話で、呑んでいたのである。

2025年1月25日 (土)

勉強は基礎から?

 小学校以来、「勉強というのは基礎が大切だ。」と、ひっきりなしに親や、先生から言われたものである。それはタダノ教授も同じだ。小学校の低学年・中学年ならば、それは正しいかもしれないが、高学年になると、それでは解けないことが多い。タダノ教授も同じような経験を持っている。しかし、先生から「基礎から、そして基礎を大切にしろ!」と言われ続けており、疑問に思っていたのも事実である。特に算数の問題が解けないと、「基礎、基礎、基礎・・・・・・!」と、うるさいくらいに言われたものだった。『問題が解けないのは基礎がわかってないからだ。』、と、刷り込まれてしまったのである。

 

 小学校の高学年になると、算数では、文章題の解き方を習ったものである。まずは、鶴亀算、そして、旅人算、年齢算、通過算、過不足算、仕事算、和差算、仕事算、植木算、・・・・・・・・・・・。色々な問題があると、感心したと同時になんとか問題を解こうとしたものであった。初めてこれらの問題に向き合って、自力で解くことは、ほとんど無理であった。解き方を習って、問題を解くと、本当に簡単にとけるのであった。要するに、基礎ができているかどうかより、その問題の解き方を知っているかどうかなのだ。ただ解き方を知っているかどうかで、解答が出せるかどうかが決まるのであって、基礎を理解しているかどうかなど関係ない。

 

 今考えると、本当に無駄な努力だった気がする。なぜかというと、中学校で、方程式を習ったなら、あんなに悩んだ文章題が、簡単に解くことができるからだ。さらに、方程式を解く過程で、問題を鑑みると、その意味がわかってくるからなのだ。そうならば、小学校の高学年で、方程式を教えればいいのに、それをしない。なぜなんだろう。今考えると、小学校の先生は、方程式の教え方をしらないからではないかと、思うのだ。

 

 国語もまた似たようなものだ。基礎が大切だからといって、漢字の書き取りばかりやらされると、国語は嫌いになるだけだ。それよりも本を沢山読ませるほうが、どれだけ国語の実力を上げるかだ。漢字の大切さは十分に理解できるが、少々難しい本を読むほうが、よっぽど国語の力や、文章力がつく。英語も同じだ。単語のスペリングが基礎だから、文法が基礎だからといって、それらに力を注ぐよりは、英語の絵本や、ドラマ、そして映画を見るほうがどれだけ英語の習得に役立つのかは、言うまでもない。

 

 全てに言えるのだが、基礎は大切であるのは間違いない。しかし、それを必死になって固めるよりは、少し先を見て、振り向くような学習法が、よっぽど、役立つのだ。俯瞰的に物事を見ることで、学習ができ、判断力が養われる、と、思う。これは、タダノ教授の意見でもある。古希を過ぎて、ようやく学ぶことの面白さと大切さを理解し始めた小生とタダノ教授である。先生がいるわけではないから、これからは俯瞰的学習に力を入れるとしようかな。

2025年1月20日 (月)

雪中四友

 雪中四友(せっちゅうしゆう)という言葉を聞いたのは、タダノ教授と呑んでいたときのことである。この寒いときにそして雪にもめげずに咲く4つの植物のことを言うのだとある。博識のタダノ教授の面目躍如ということだ。本当によく物事を知っているのだと感心するだけだ。彼によると、雪中四友とは、中国で、昔から言われているらしいのだ。

 

  古くから画の題材として好んで描かれた4つの花梅(ウメ)、蝋梅(ロウバイ)、水仙(スイセン)、山茶花(サザンカ)のことである。
文字通り、雪の降る寒い中で花を咲かせるのである。日本人にとっても親しみがあり、どれも街中で散歩しながら楽しめる花々なのである。ちょうど今の季節に花を咲かせるというのだ。

 

 そこで、小生の住んでいる伊丹で、この時期に、この「雪中四友」を探してみることにした。20250118134102 と 、言っても、ランニングコースがちょうど、草花の咲く公園や堤防なので、ちょっとだけ注意を向ければいいだけのことだ。そこで、まず、フランチャイズである端ヶ池ルートをゆっくりと、周りを見ながら、走ったところ、「サザンカ」を簡単に見20250118135254 つけることができた。そして、隣の緑が丘公園に向かう。ここは以前は梅林で有名だったところだが、”梅の葉の病気”のために、今は殆ど処分されている。それでも、ロウバイが数本残っていた。ちょうど咲いていたのである。後は、スイセンと、ウメだ。これは少し難しかった。それでも気を取り直して、今度は、天神川堤防を走りながら、あたりを見回したのである。

 

 ランニングコースの堤防の法面に、スイセンが咲いているのを見出したのだ。後は、ウメ20250119133631 20250119133500 だけだ。しかし、この時期はまだウメのシーズではない。公園のウメは蕾すらまだない。そこで、庭木専門店へ向かうのだった。ここでも咲いていたウメはないのだが、蕾が大きくなっていたウメを見つけたのである。4種類、全部見つけたことになった。(ウメに花が咲いてなかったのは、少し残念!)

 

20250119141216  雪中四友を見出すには、もう少し時間がかかるようだ。しかし、この言葉はいい響きを持っている。画の題材として、好まれるのがわかった気がする。

2025年1月15日 (水)

ストループ効果

 毎度のことながら、タダノ教授とは、いっぱい呑みながらの懇談の時間が嬉しい限りだ。もっぱら、中学高校時代の話に花が咲くのであった。何しろ昭和の時代が懐かしい世代なのであるのだ。そんな時に今回は、色彩の話になった。小生は、カラーコーディネーターの資格を有しているので、色のことならば、タダノ教授には、負けない知識はあると思っていたのである。しかし、流石にタダノ教授だ。心理的な影響についてもまた、研究していたのだ。色と、文字の関連を調べていたのである。

 

この色と、文字をゴチャゴチャに示すと、脳が反応するのに、時間がかかるというのだ。例えば、下記のように、緑色で青の字を書く、黄色で、赤と書く、そして、赤色で黃と書き、青色で緑と書く。このようにされると、認識に時間がかかるのだ。下記に示す。

001_20240815132701

https://asu-yoku-laboratory.com/stroop-effect

 

次の様に一致すると、スムーズに認識できるのだ。

02_20240815132801

 

  この例のように、「文字の色の情報と文字の意味が持つ情報、それぞれ二つの持つ情報が矛盾している場合、答えを導き出すまでに時間が掛かってしまう現象」のことをストループ効果というのだと、タダノ教授が説明してくれた。

 

 さらに、信号機の「進めが緑」「注意が黃色」そして、「止まれが赤」であることが、ほとんどの人は、脳の中にしっかりと刷り込まれているのである。。当然といえば当然だ。何しろ小学校以来、信号機というのはそういうものであると、習ってきているし、それに従うべきであることもわかる。日本だけではなく、殆どの国で、この色分けがなされているようだ。この刷り込みのように、「色の情報」と「意味」が社会に広く行き渡っているものであればあるほど、矛盾する色と指示がある場合は、なおのこと、先入観などが邪魔をして情報処理に時間が掛かるのだ。

 

 このストループ効果の名前はアメリカの心理学者のジョン・ストループというオッサンが由来だと言う。これをビジネスに適用することができる。例えば、セール商品の広告では、ピックアップした商品を紹介する場面で、色と情報の相違による矛盾があるとストループ効果が起こるので、注意する必要がある。違和感を持たせない表現を用いるのだ。(例えば、高級マンションの広告に、やすいアパートが映らないようする。海水浴の海をきれいな明るい青にする。など)

 

 流石に、タダノ教授だ。惚れ惚れするくらいの博識である。今回もまた、感心してしまった。

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