性弱説
タダノ教授と話をしていたときのことである。彼は、科学・技術のみならず、経済や、心理学にも幅広い知識を持っている。彼との盃を傾けながらの懇談は、楽しいものであった。特に互いに古希を過ぎたあたりからは、昔話に花を咲かせるのが常だった。主に、昭和の話が多いのは、二人共夢と希望が溢れていた時だからなのかもしれない。そんな彼と、哲学談義に花を咲かせるのも楽しいものだ。何しろ、小生とタダノ教授は、屁理屈が大好きときているのだ。
「性善説と性悪説」が、あるのを知っているよな。」と、タダノ教授。「人間の自然本性(生まれつきの性質)は善である」とする説と「悪である」とする説のことだ。」そして、これは古代中国の儒家の『孟子』と『荀子』の対立に由来することを学校で習った覚えがある。性善説は「人はみな善人である」という楽観主義、性悪説は「人はみな悪人である」という悲観主義、といった意味合いで広く使われているものだ。しかし、本来は、「教育の重要性」を主張するための説であったのだ。
タダノ教授が初めて聞く面白い説を言い始めた。性善説でなく、性悪説でなく、それは、「性弱説」というものだった。たしかに面白そうだ。「つまり人は、生まれながら膳とか悪とかで区分けされるものではなく、そんなに強いものではない。」という説だ。生物は、生存本能を脅かされると、生き残ることを最優先に、行動するものだという考えである。そんな状況に置かれると、道徳や倫理、法律などを超えて生存のために利己的な行動を取るという思いなのだ。たしかにこの説には説得力があると小生は思った。
身近では、道でお金を拾っても届けない人がいるし、優先席の前に年寄りに譲らない人を見ることもある。道徳的には、許されないことだろうが、人間というものは弱いものである。また、飢餓に苦しんでいる人が、食べ物を盗んでしまう人を責めることができるだろうか。映画の世界だが、我が子の心臓移植手術のために、立てこもりの犯罪を犯す親を主人公としたのがあった。本来は、人間は善であるが、弱いものである。
企業の不祥事なども、ひょっとしたら、性弱説なのかもしれない。本来、企業は"善”でなければ、存続は難しいのだ。しかし、経営幹部の判断でトラブルを誤魔化したり、欠陥を隠したりする。バレると、関係者一同揃って頭を下げるシーンが繰り返されるのだ。こんなことは、最近日常茶飯事になってしまったのか、さほど驚かない。だからこそ、企業では、ガバナンスが、大切なのだ。
性弱説と、言う言葉を初めて知ったのであり、日本人の優しさが、その言葉にあるということなのだ。考えてみると、小生などは、性弱説を地でいくらい弱い人間だったと思う次第だ。それにしてもタダノ教授は奥行きの広い洞察力を持っているものだと、あらためて、感心した。
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